伊藤新道 ; 北アルプス 1972年8月9日 2016.6.26 記
(2017.1.22 一部追記)
本稿は、伊藤新道がまだ利用可能だった時代、1972年8月時点の下山記録。
それから約10年後、伊藤新道は一般登山道としては通行ができなくなった。
筑波大学名誉教授(電子情報工学)故安藤和昭先生を偲びつつ
伊藤新道 湯俣川、第5吊り橋を渡る安藤先生 (左下隅、筆者)
1972.8.9
国土地理院 5万分の1 集成図 【槍・穂高】 (昭和42年編集昭和44年6月発行)部分
現在廃道の「伊藤新道」及び「宮田新道」が記載されている。
「伊藤新道」要図 (湯俣川に架かる5個所の吊橋位置が記載されている)
国土地理院5万分の1地形図 【槍ヶ岳】 (昭和46年8月発行)部分
伊藤新道 ; 北アルプス 1972年8月9日
昔、北アルプスの雲ノ平(三俣蓮華岳付近)と下界とを最短(強行すれば丸1日)で結ぶ登山道があった。「伊藤新道」といった。
三俣蓮華岳と鷲羽岳の中間(鷲羽乗越、三俣山荘近く)から、東に伸びる小尾根の南斜面を下降して湯俣川に出て、そこから湯俣川の岩壁に架けられた吊り橋を行ったり来たりして下りつつ、下流の高瀬川合流地点、湯俣(温泉)に至る。これが「伊藤新道」である。
因みに、高瀬川右岸道(高瀬から湯俣まで)は、槍ヶ岳北鎌尾根へのアプローチ道でもあり、また西鎌尾根に繋がる「宮田新道」(今は廃道)への接続道でもあった。
伊藤新道のお陰で、高瀬~三俣山荘間は、登りであれ降りであれ、湯俣で一泊すればゆっくり歩けた。健脚登山者はその日の内に”走破”することも可能だったようで、伊藤新道が下界から北アルプスの"奥地"、雲ノ平へ向う最短の経路だった。
さて、残念ながら、この「伊藤新道」、現在は通行不能になっている。
1973、74(昭和48、49)年頃からの高瀬ダム工事の本格化に伴い、登山者の往来が危険なため高瀬サイドで通行規制が始まり、その余波で、伊藤新道の利用者も激減、そして、ダム完成とともに高瀬川右岸の元々の登山道はダム湖に水没してしまった。
間もなく、高瀬川沿いの道は湯俣温泉まで新たな右岸高巻き道で復活した。しかし、伊藤新道(湯俣川サイド)は登山者が途絶えたまま、谷筋の崩壊が進み、岩壁に切り開いた登山道や全部で5箇所あった吊り橋も補修が困難となった。一般登山道として伊藤新道が通行禁止とされたのは1983(昭和58)年である(注)。
その吊り橋も、今や河原から湧く強烈な温泉ガスのため、全部朽ち果ててしまったと聞く。また、湯俣川両岸岩壁の崩落も止まらない。高瀬ダムの貯水圧のせい、と伊藤氏は自身の著作「伊藤正一写真集 源流の記憶」(山と渓谷社:2015年)で述べている。同じ著作で、氏は、伊藤新道の復活が夢だとも語っているが。
(注)三俣山荘がWEB掲示している「黒部源流の歴史」によれば、一般道としての通行禁止は1973(昭和48)年としているが、他方、伊藤正一著「伊藤正一写真集 源流の記憶」(山と渓谷社:2015年)では、著者「あとがき」及び「伊藤正一個人史」欄にその年は1983(昭和58)年と明記してある。いろいろな方の証言から、後者1983年が正しいと考える。
****************** 以下、2017.1.22 追記 *****************
伊藤新道を一般道として通行禁止とした時期について、三俣山荘に問い合わせをしていたところ、山荘経営者のお一人、伊藤敦子氏から大変鄭重なるご返事を頂いた。ブログ掲載のご快諾を頂いたので、ここにその骨子を記載させて頂く。
・通行禁止の時期は1983年が正しいと思われる。
・70年代に入ってから湯俣の谷の崩落が始まり、80年代に入るころには吊り橋が落ちたり直したりの追いかけっこになった。橋が維持できなかった第3吊り橋付近は高巻きの道をつけた、と記録にある。
・また、他の経営者の記憶では、第4、第5の吊り橋は90年までは残っていた。
・なお、現在でも、第4吊り橋(ワリモ沢出合)はワイヤーだけが張った状態で残っている。
・80年代後半には通行する人はほとんどいなくなった。
・現在、毎年登山道整備を行っており、2016年度も三俣山荘から第5吊り橋までは、草刈、梯子・ロープの付け替え、ルートの見直しを行った。
そして、頂いたご返事の最後は、「伊藤(正一氏)の願いがかなう日が来るのかはわかりませんが、三俣山荘の礎である伊藤新道は忘れないでいきたいと思っています。」と締めくくられていた。
通行禁止時期は1983年で間違いないようである。
伊藤様には、お忙しい中、労をいとわず、このブログのために大変丁寧なご回答いただきました。
厚く御礼申し上げます。
*********** 以上、2017.1.22 追記 終わり ************
僕たち、K大学工学部電気、近藤研究室のメンバ5名(安藤助教授(リーダ)、宇山助手、趙研究員、それに修士一回生の久江君と筆者)は、1972(昭和47)年8月9日、雲ノ平からの下山に伊藤新道を利用した。
その時の様子をお見せする。
なお、当日僕たちが伊藤新道ですれ違った湯俣から登って来るパーティは4~5組だった。その最後は、午後大分時刻が回ってから、まだ湯俣寄りですれ違った親子(父、娘)らしき二人組で、見るからに息が上がっていた。今日中に三俣山荘まで行けるのか、いささか気になった記憶がある。
三俣山荘近くの鷲羽乗越からしばらく尾根道を降りると、ダケカンバの樹林帯の中、槍ヶ岳北西面が見えてくる
1972.8.9(エクタクローム)
尾根道の展望台らしき場所から。槍ケ岳手前の左右に広がる稜線は硫黄尾根
1972.8.9 (プリントから)
湯俣川に出た。灼熱の中、最初の吊り橋(第5吊り橋)を渡る
1972.8.9 (エクタクローム)
湯俣川、これも恐らく第5吊り橋。硫黄分で水流が真っ青
1972.8.9 (プリントから)
8月9日午後、湯俣に着き、ゆっくり露天風呂に入った。高天原に続き今山旅2回目の温泉だ。
翌8月10日、湯俣から高瀬に向って歩く。
既に高瀬ダム工事が始まっており、大きな荷物を背負っての登山者通行は危険なため、登山者荷物は高瀬第5発電所から七倉まで、工事業者がトラックに乗せて運んでくれた。登山者を乗せてはくれず、ヘルメットを被って歩行することになった。写真は高瀬付近。
僕たちが伊藤新道を降った2年後、1974(昭和49)年7月にC330氏が撮影した伊藤新道を通る登山者の写真が公開されている。
ウーム、これほどの断崖の道を我々も通ったのか。正直なところ、あんまり記憶が定かではない。
登山全行程 1972(昭和47)年8月4日~8月10日
この登山の行程は6泊7日全幕営で、以下のようなものだった。
写真からも分かるように天候には本当に恵まれた。
1972(昭和47)年
8月4日 京都 <鉄道> 富山 <鉄道> 有峰口 <バス> 折立(幕営)
8月5日 折立-太郎平-薬師沢出合-カベッケ原(幕営)
8月6日 カベッケ原-雲ノ平(祖父沢)(幕営)-コロナ平-高天原温泉-祖父岳ー雲ノ平(祖父沢)(幕営)
8月7日 雲ノ平(祖父沢)-ワリモ乗越-水晶岳-ワリモ岳-鷲羽岳-鷲羽池-三俣山荘-日本庭園-雲ノ平(祖父沢)(幕営)
8月8日 雲ノ平(祖父沢)-日本庭園-三俣蓮華岳-三俣テント場(幕営)
8月9日 雲ノ平(三俣テント場)-伊藤新道-湯俣温泉(幕営)
8月10日 湯俣-高瀬第5発電所-濁-七倉 <バス> 信濃大町 <鉄道> 京都
雲ノ平を根城に同地4泊幕営。途中、雲ノ平の幕営地を、カベッケ原から祖父沢、三俣へと移動した。
伊藤新道を下山した最終泊、湯俣では、天候悪化の兆しあり、小屋泊まりに変更しようかという意見も出たが、結局、最終の幕営を続行した。
以下、当時の写真から。
左:入山初日、幕営地「折立」の夕暮れ、明日以降の好天を祈念 1972.8.4(エクタクローム)
右:翌日、折立から太郎平へ3分の2くらい登ったところで、北側が開け剱岳が顔を出した 1972.8.5(エクタクローム)
左:太郎平への登りはきつかった。当時、ザックの重量は一人平均33Kg位 1972.8.5(プリントから)
右:薬師沢を越え、雲ノ平の高原を行く我らが堂々の登山隊(というか、ボッカ隊か)。背景に水晶岳大きく 1972.8.5(プリントから)
左:天候予測が命。本邦南方海上から台風が接近しつつあり、行動中でも9:15定時の気象通報から天気図を作成する僕。たしかこの前日、大阪34度の記憶 1972.8.7(プリントから)・・・・登山中にラジオの気象通報から作成した全天気図をこの記事の最後に掲示した。
右:水晶岳(黒岳)全景、雲ノ平から 1972.8.6(エクタクローム)
左:三俣蓮華岳が大きく見える。バックに槍ヶ岳 1972.8.6(エクタクローム)
右:黒部五郎岳が指呼の間に展望できる地点に、我らがテント(大型6人用)を設営 1972.8.6(エクタクローム)
右:朝寝坊した朝の、祖父(じい)岳と雲ノ平幕営地 1972.8.7(エクタクローム)
右:登山隊全員の集合写真、右奥に剱岳。水晶岳頂上での撮影ではなさそう。水晶岳には六角柱の水晶結晶があったが
(前列:安藤、久江、宇山、後列:筆者、趙)(プリントから)
鷲羽池 1972.8.7(プリントから)
左:朝の鷲羽岳と三俣山荘、三俣蓮華方面から 1972.8.8(エクタクローム)
右:三俣蓮華岳山頂直下 1972.8.8(エクタクローム)
槍ケ岳と穂高と巻雲、三俣蓮華(または第一雪田)から 1972.8.8(エクタクローム)
槍ケ岳北鎌尾根と巻雲、奥に常念が顔を出す、三俣蓮華(または第一雪田)から 1972.8.8(エクタクローム)
中央に水晶岳、右端は鷲羽岳、左方向に赤牛岳、その奥、立山、劔嶽が見える。三俣蓮華から 1972.8.8(エクタクローム)
午後の鷲羽岳と三俣山荘、三俣蓮華方面から 1972.8.8(エクタクローム)
槍ケ岳残照、小槍の影もくっきり、鷲羽岳から。明日はいよいよ伊藤新道を下山 1972.8.8(エクタクローム)
おまけ:黒部五郎岳の大カール(フジクローム)
天気図(全て、山中で作成したもの)
1972.8.4.1200
1972.8.5.1200
1972.8.6
この日は行動時間が長く、作成の時間が取れなかった。台風の接近が懸念された。
1972.8.7.0600 昨日の天気図が作成できなかったので、行動中に作成。台風は逸れつつある。
1972.8.8.0600 行動中、台風の位置確認のため天気図作成。
1972.8.8.1200
1972.8.9.1200
1972.8.10.1200
1972.8.11.1200 京都帰宅後
僕は京都大学工学部4回生後期から修士修了までの2年半、工学部電気系学科の近藤研究室(故近藤文治先生)に配属された。
その時、安藤和昭先生は研究室に助教授でおられた。僕は研究では、直接、安藤先生の教えを受けた訳ではなかったが、スポーツ好きだった先生とは、よくご一緒に行動させて頂いた。
別けても、最も印象深いのが、僕が修士一回生の夏に行った、上述の北アルプス雲ノ平縦走6泊7日登山である。5名全員、近藤研究室のメンバーだった。
先生はこの登山チームのリーダとして、僕たちをよく指導してくれた。しかも最も重い(現在では想像もできない重さの旧式)6人用大型テントを最後まで担いだのも先生だ。それがリーダの務めだと仰っていた。
先生のお蔭で僕たちは、きつかったが危険少なく、大変楽しい有意義な登山経験を得ることができた。僕がその後も継続的に登山を嗜むようになったのは、正にこのときの先生のお蔭と言っていい。
僕は京都大学を卒業(修了)後、東京の会社に勤め、一方、先生はその後しばらくして筑波大学に教授として迎えられた。従って、僕がたまに仕事などで京大を訪れても先生にお会いすることはなかった。
1982(昭和57)年10月10日、僕は単独で那須岳に登った。三本槍岳に向かう清水平の草原で、偶然にも休息中の安藤先生ご一家にお会いした。お互い大いに驚き、突然の再会、しかも山での邂逅を喜んだ。それが先生とお会いできた最後になった。
先生は、その後、突然の事故に遭われた。重篤と伺っていたので、お見舞いは控えさせて頂いた。長らく病床にあり、2007年3月16日不帰の人となられた。享年72。
僕が先生の訃報を知ったのは、ご葬儀が終わった後だった。
先生との最後の出会いが偶然にも山であったことは、僕にとって先生に対する格別な想いとなっている。こうして、山を書き、山を想うたびに今なお、先生が偲ばれるのです。
2016年6月27日 筆者(hinotorigusa)拝